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SkiiMa Galleryでは、2023年1月5日から1月15日までアーティスト溝渕珠能の個展を開催致します。
溝渕は京都精華大学を卒業後、東京での活動を経て、現在は出身地である香川県に拠点を移し活動しています。精緻な筆致と鮮やかな色彩が印象的な作品は、自作した積み木や木片などの小立体、紙から切り出したかたちやドローイングなどを平面上で再構成し描かれています。作品上で表現されるすべては、溝渕自身が過去に目にした事象をもとに表現されており、抽象的な表現は鑑賞者の経験や想像力を引き出し、新しいイメージを想起させることで作品を完成へと導きます。人々の物の見方・感じ方の違いに興味がある溝渕は、世界の見え方は1つではなく多様であるということを、観る人に訴えかけるため、自身が見ているものを色や形、線や空間への配置に変えて描き、鑑賞者が想像力を使って組みなおすというアプローチを試みています。
本展では、2022 年にOIL by 美術手帖ギャラリーにて開催された「モノミユサン - the intangible landscape -」からテーマを引継ぎ、新作を加えて展示いたします。幼少期から学生時代を過ごした大阪での展示は8年ぶりとなる今回、多くの方にご覧いただき想像力のはたらくままに作品を楽しんで頂ければ幸いです。
開催概要
日時:2023年1月5日 - 1月15日
場所:SkiiMa Gallery(心斎橋PARCO 4F SkiiMa Shinsaibashi内)
営業時間:10:00 - 20:00
入場料:無料
展示作品はすべて購入頂けます。
購入希望の方は、店頭もしくはオンラインストアにてお申込み下さい。
ステートメント
風景の先にはモノ(物)があり、その先はまた風景へと繋がる。
このようにしてイメージは循環、流転していると私は考える。
「物見遊山」という言葉がある。
意味は「気晴らしに見物すること、モノ(何か)を見に、とりあえず山へ遊びに行く」そのような心持ちである。
この「何かを見に行く」というあやふやな行動は、何を目的としているのだろうか?あえて言うとすれば、そのようなもの(目的、目標)は無いのだと思う。私がこのように無垢な行動を好ましく思っているのかどうか、それはどうでも良いことだ。
大事なのは、そこには何かを見るあなたがいる、ということだ。
私は目を開ければ過ぎていく風景を、モノのように置換した。
モノと向き合うような距離感で、風景と対峙する経験は見ることから始まる。
Beyond the landscape are objects, which in turn lead back to the landscape. I believe that images circulate and flow in this way.
There is a word "monomiyusan," which means "to go to the mountains to see things (or something) for recreation or as a diversion."
What is the purpose of this vague action of "going to see something"?
I would venture to say that there is no such thing (purpose).
Whether or not I favor this unintentional action, it is not important.
What is important is that there is you who sees something in it.
I replaced the scenery that passed by when I opened my eyes, like a thing.
The experience of confronting the landscape from a distance, as if facing an object, begins with looking.
プロフィール
Juno Mizobuchi
1992年香川県生まれ。京都精華大学卒業。
主に絵画作品を制作する。作品展示、アートワークの提供、壁画の制作などを行う。
単純で小さな行為により、現在の自分を感じる作品を制作する。
Born in Kagawa, 1992. Graduated from section of illustration, faculty of design, Kyoto Seika University.
He mainly produces paintings and also exhibits his work, provides artworks and produces murals.
He’s trying to create the work that let him find himself by doing simple and small actions.
風景画、風景写真や、例えば実際に高所から見下ろした俯瞰の風景など、〈風景〉というものを想像した時にはこのような情景を思い浮かべると思う。
人が自分の見ている視界は現実であるということを肯定した上で、これまで得た知識によって視界を理解し、認識した時に初めて風景は存在する。
私の絵にモチーフはなく、〝色や形の配置とそれ以外の空間〟により構成されている。
人が風景として認識する前から存在する〈無形の風景〉を私たちが見ることは決して叶わないが、小さな要素により構成された画面は、その風景へとつながっているのではないか。私たちが個別にもつ言葉を超えた視界に映る万物のイメージが、そこには立ち現れるのではないだろうか。
僕が描いているのはこれまでに見た風景のイメージを摘み取ったものだろう。
風景ではあるが、そのフォーカスの度合いは鑑賞者によるところである。
風景の中にある一つのオブジェクトにフォーカスするのであれば、それはモノになる。
ただ重要なのは、その先に続くのはまた風景だということだ。
Landscape paintings, landscape photographs, and a bird's-eye view from a high place etc...when you imagine a <landscape>, you think of it as a scene.
Landscapes exsist only when one affirms that the field of vision that one is seeing is real, and then understands and recognizes the field of vision with the knowledge learned in life.
There is no motif in my paintings. They are composed of the arrangement of colors and shapes, and the space.
We can never see the "intangible landscape" that existed before we recognized it as a landscape, but I think that the screen created by small elements are connected to that landscape.
The image of all things reflected in the view beyond the words we individually have may appear there.
What I draw is a collection of past landscapes, which extracts some image of a huge landscape.
So it's a landscape, but the degree of focus depends on the viewer.
If you focus on an object in the landscape, it's a thing.
But the important thing is that what follows next is the landscape again.